40代の妊活奮闘記: 体外受精→42歳で奇跡の妊娠【体験談】

40代の妊活は過酷です。時には、周りの人々や医師からの言葉に心を痛めることもあるかもしれません。40代で子供を望むことは、確かに挑戦的な道のりかもしれませんが、それは決して不可能ではありません。この記事ではアラフォーで妊活に挑戦した私の体験談をご紹介します。希望、失望、焦り、絶望、諦め、再挑戦を繰り返して手探りで進んだ6年間の経験が、誰かの役に立てば幸いです。なおこの記事は医療的なアドバイスではなく、一個人の体験記なので、誰にでも当てはまることではことをご理解ください。

エリカトロン

この記事は次のような人におすすめ!
・妊活中のアラフォー女性
・アラフォーの妊活体験談に興味がある
・42歳で妊娠した経緯を知りたい

目次

37歳、自己流で妊活をはじめる

私の妊活の始まりは37歳の時でした。当時、結婚を前提にお付き合いしていた彼(現在の夫)と同棲を始めたタイミングで、子作りを開始しました。ネットや本で仕入れた情報をもとに、基礎体温を測り、市販の排卵検査薬を使いながら、自己流でタイミング法を試みました。半年ほど経っても一向に妊娠の兆候は現れませんでした。

不妊治療の経験がある知り合いが、体に何か問題があるかもしれないし早めに病院に行って調べた方がいいと勧めてきました。一刻も早く妊娠したかった私は彼に相談しましたが、当時彼はあまり乗り気ではなく、出張や喧嘩で子作りのタイミングもとれないまま、気がついたら1年が経っていました。

妊活中の生活に役立つ情報をいくつかの記事にまとめたので、あわせてご覧ください。

38歳、不妊治療専門クリニックへ

38歳になりパートナーと入籍し、このままでは子供ができないかもしれないと焦り始めた私は、本気で夫を説得し、ついに不妊治療専門クリニックを初診しました。

クリニックでは、治療に入る前に様々な検査を受けました。卵管造影検査、子宮内膜の形態検査、排卵障害の検査、卵巣の検査など結果、高齢といういうこと以外は私の体に異常はなく、むしろ卵巣の予備卵胞数(AMH)は20代前半の数値ということで安心しました。

早速、医師の指導のもと、タイミング法を開始しましたが、いい結果が出ませんでした。当時は人工授精と体外受精の違いも知らなかった妊活ビギナーの私でしたが、「なにがなんでも自然妊娠で授かりたい!」というこだわりは全くなく、早く子供ができるならどんな方法でも良いと思っていたので、ステップアップすることには全く抵抗がありませんでした。

夫の精子の問題と人工授精の挑戦

医師の勧めで夫の検査もしたところ、精子の運動率が悪いことが判明しました。自然妊娠の可能性は限りなく低いと言われました。じゃあステップアップしよう、と気持ちを切り替えた私とは正反対に、夫は検査の結果がショックだったようで、もう一回検査をしたいといい、翌月も同じ検査をすることになりました。妊活は男性にとっても精神的ストレスを生むものなのだとこの時に知りました。検査結果は変わらず、夫もようやく納得した様で、医師に勧められて私たちはひとまず人工授精に進むことになりました。

すぐに妊娠するだろうと期待していた人工授精でしたが、現実は甘くありませんでした。数回ほど挑戦しましたが、残念ながら妊娠することはありませんでした。医師と相談して、私の年齢(当時38歳)を考慮して、早めに体外受精にステップアップすることになりました。

体外受精の準備のためにクリニックに頻繁に通う必要が出てきたため、会社の仕事のスケジュール調整をする必要があり、不本意ながら不妊治療をしていることを上司に打ち明けました。当事者以外に不妊治療を告白するのは、とても勇気がいることでした。しかし周りのサポートなく治療を続けていくのは難しかったため、いろいろな感情を飲み込んで説明しました。幸運にも上司は快く応援してくれて、急な予定変更も理解を示してくれました。

初めての体外受精

初めての体外受精に臨んだのは、クリニックを初診して半年後のことでした。仕事の合間を縫って毎日のように激混みのクリニックに通院するのはストレスでした。当時は不妊治療に保険が効かなかったので、高額な治療費をいつまで払い続けられるか、経済的な不安もありました。ホルモン注射や薬の副作用で常にイライラしていて夫との喧嘩も増えるし、忙しすぎて友人に会う時間的余裕もなく、気が休まることがありませんでしたが、早く妊活を卒業したい一心で頑張りました。

幸いにも採卵では22個の成熟卵がとれました。体外受精と顕微授精を行い、8個の受精卵を凍結しました。どれもグレードの良い卵だと医師から太鼓判を押され、妊娠に一歩近づいたことが嬉しかったのを覚えています。2個づつ凍結して、胚移植4回分の用意ができました。この時の私は体外受精について知識も経験も浅く、すぐに妊娠するだろうし卵を全部使い切ることはないんだろうな、と楽観的に考えていました。

OHSSの入院体験

採卵後、私は重度の卵巣過剰刺激症候群(OHSS)になってしまい、そのまま8日間も入院することになりました。

OHSSは、不妊治療の一環として行われる体外受精(IVF)などの治療によって、卵巣が異常に反応してしまう症状です。通常、不妊治療で使用される排卵誘発剤を投与すると、卵巣が複数の卵胞を生産することがありまが、一部の女性ではこの反応が異常に強く、多くの卵胞が同時に育ってしまうことがあります。OHSSは軽度の場合、自然に回復することがありますが、重度の場合は命にかかわる場合もあるといことで、私は入院を余儀なくされました。

やっと点滴から解放された退院後も、自宅での絶対安静の療養が必要で、結局2週間会社を休むことになりました。食事とトイレ以外は寝たきりの生活を強いられ、なぜ私だけがこんな目にあうのだ、男はずるい!と妊活によって生活が何一つ変わらない夫を恨めしく感じた日もあります。

一方、ベッドから動けない私の代わりに、夫が家事をやってくれるようになりました。それまで完全に個人主義だった私たちですが、この期間にチームとして成長できたのは良い変化でした。

胚移植1回目&2回目→陰性

2ヶ月の療養期間を経て、無事に卵巣の腫れがおさまり、いよいよ初めての胚移植に向けて準備を始めていた頃、世間は新型コロナ流行の影響で、不要不急の外出を自粛するムードになっていました。私の通っていた病院も不要不急の手術は一時停止する方針になり、胚移植は再び延期となってしまいました。思う様に進まない妊活に、ストレスから不眠気味になりました。

そして採卵から4ヶ月後、ついに1回目の胚移植の日がやってきました。胚盤胞のグレードは高く、1度に2個も戻したこともあり、とても期待していましたが、結果は陰性でした。

2ヶ月後に2回目の移植を試みました。この時もグレードの高い胚盤胞を2個戻しましたが、再び陰性。医師も具体的な理由を見出せず、私の焦りは最高潮に達しました。

この頃、突然原因不明の蕁麻疹がでたり、喘息の発作がでたり、常に体調が悪い日々が続いていましたが、一刻も早く妊娠したい一心で、休むという選択肢は自分の中にはありませんでした。妊活経験者の知り合いに「焦ると妊娠しないよ」と言われ傷ついたり、妊活に対する夫との温度差を感じたり、孤独感は増す一方でした。ギリギリの精神状態でなんとか日常をやりくりしていて、心の余裕は1ミリもありませんでした。

胚移植3回目→子宮外妊娠→自然流産

そんな状態で臨んだ3回目の胚盤胞移植後、微妙な陽性反応がありました。数週間ドキドキハラハラしながら経過観察をしていましたが、最終的には子宮外妊娠と診断されました。

子宮外妊娠とは、受精卵が子宮の外側で着床してしまう状態のことです。通常、受精卵は卵管内で子宮に向かって移動し、子宮内膜に着床して妊娠が進行します。しかし、受精卵が卵管の途中で停滞し、そこで着床してしまうことがあります。この場合、子宮外妊娠となります。子宮外妊娠は通常、早期に発見されると治療が可能ですが、放置すると重大な合併症を引き起こす可能性があるということでした。不妊治療専門のクリニックでは対応しきれないとのことで、大学病院に紹介状を書いてもらいました。

大学病院で検査を重ねた結果、右の卵管に着床していることがわかりました。卵管切除の手術をするか、自然流産を待つか、2つの選択肢がありました。いろいろ考えて、医師と相談して自然流産を待つことにしました。その後4ヶ月間、経過観察のために定期的に通院し、自然流産を経験しました。

不妊治療専門クリニックと違い、大学病院の待合室は妊婦健診に訪れたお腹の大きい妊婦さん達でいっぱいでした。彼女たちにもそれぞれ苦労や事情があったかもしれないのに、私はただ彼女たちがうらやましくて、流産を待つしかない自分が惨めに思えて、通院の度に悲しい気持ちになりました。

39歳、不眠症&適応障害になり休職

大学病院を卒業し、やっと妊活を再開できる段階に差し掛かったとき、私は39歳になっていました。身も心も疲れ果てて、うつ病のような症状が現れ、仕事に集中できず、好きだった趣味も楽しめない日々が続きました。食欲もなく、誰とも会いたくない孤独感と絶望感に襲われ、生きる意味を見失いかけました。私の不安定な精神状態が夫にも波及し、私たちの関係は危機に瀕し、離婚まで考えました。当時は自分が「妊活うつ」の状態にあることに気づくまでに時間がかかりました。

いよいよ全く眠れなくなり、徹夜を繰り返して頭が回らなくなり、夫に半ば引きづられるようにして心療内科を受診しました。その結果、適応障害と診断され、会社を休職することになりました。

休職中は心のケアを最優先にした生活を送ろうとしたものの、初めの頃は「早く治して仕事に復帰しないと!」「今のうちに子供を作っておかないと!」など、焦る気持ちでいっぱいで、心が休まる事はありませんでした。社会のレールから外れてしまった劣等感や、将来への不安で、不眠状態もつづき、とても苦しい時期でした。

休職中の会社との連絡メールの書き方について以下の記事で解説していますので、似た状況で困っている方はぜひ参考にしてください。

妊活を中断

休職中になんとか妊娠&出産をしたいという気持ちはありましたが、心も体もその負担に耐えられう状態ではなく、医師や夫からも止められたため、妊活を休止することにしました。

それまで頑張っていた「仕事」と「妊活」を一気に手放した事で、人生がリセットされたような気持ちになりました。清々しい気分ではなく、むしろ目的を見失った廃人のような状態でした。自分の状態について知りたくて、たくさんの本を読みました。うつ病や適応障害という病気について学び、さまざまな治療方法を試しました。

毎日いっぱい考えました。なぜこんなことになってしまったのか、何のために生きているのか、どうやったら眠れるようになるか、本当に子供が欲しいのか、それとも周囲の期待に応えたいだけなのか・・・。自分の考えを整理するのに役立ったのが、「モーニングページ」という日記をつける習慣でした。以下の記事にやり方を詳しく解説してあるので、気になる方はご覧ください。

不眠症改善策についても、当時の経験を踏まえて、以下の記事にまとめてありますので、ご覧ください。

退職と新しい生き方

休み期間を延長しつつ、最終的には1年間休職した後に会社を退職しました。

退職時にした手続きや注意点については以下の記事にまとめてあるので、あわせてご覧ください。

私の適応障害や不眠症が大幅に改善してきたのは、会社を退職してからでした。気になっていた新しい分野の勉強をはじめたり、フリーランスといて自分のペースで仕事を再開していく中で、心のバランスを見つけていく事ができました。またそこで出会った新たな仲間たちに自分の存在を認めてもらえた事で、これまでとは異なる生き方を受け入れて、再び未来に希望をもつことができるようになりました。

この時期、やりたかった事を始める時、原動力になった本について以下の記事にまとめたので、ぜひご覧ください。

結果的に約2年半の間、妊活をお休みしていました。

子供をもつことを諦めたわけではなかったけれど、なにがなんでも子供を作らなきゃという気持ちから、子供がいてもいなくても私は幸せに生きていく事ができる、というふうに考え方が大きく変化していました。

心からそう思えるようになったのは、しっかり休息期間をとって、とことん自分と向き合えたからだなと思います。また、子供がいなくても夫婦2人で充分幸せだと、繰り返し励ましてくれた夫のおかげでもあります。

41歳、妊活再開&4回目の胚移植→陰性

そして私は41歳になりました。やってみたいことのチャレンジが一区切りした時、子供を望むならば最後のチャンスかもしれないという気持ちが湧き上がりました。

不眠症や適応障害の症状も和らぎ、夫もこの決断を支持してくれたため、再び妊活を始めることにしました。また、不妊治療の法律が改定され、保険が適用されるようになっていたことも、私たちに後押しをしました。これが最後の不妊治療の機会だと感じました。

前回の採卵から残っていた最後の胚盤胞を2個移植しましたが、結果は陰性でした。通算4回目の失敗でしたが、この時は前回のように激しく失望することはありませんでした。過度な期待を抱かずに臨んだことで、ただ事実を受け入れることができたのだと思います。

2回目の採卵→再びOHSSで入院

3回までの不妊治療が保険適用されることを知っていたので、2回目の採卵に挑みました。28個もの成熟卵を採取しましたが、胚盤胞に成長する過程で成長が止まり、結局4つの胚盤胞ができました。2個ずつ凍結し、2回分の胚移植のストックができました。これらをすべて移植してもダメだったら、その時は子供を諦めることにしよう、と初めて「諦める」という選択肢が頭に浮かびました。

その後、再度OHSS(卵巣過剰刺激症候群)に陥り、再び入院することになりました。寝たきりでいることは気が滅入りますし、体力も少しずつ衰えていきます。でも、前回とは違って、もう会社員ではなかったため、精神的なストレスやプレッシャーは以前よりも軽かったです。ゆっくりと回復していく中で、採卵1回目の時に自分が無理をしていたことや追い込んでいたことを冷静に振り返ることができました。

子宮内膜ポリープの発見と手術

卵巣の腫れが治り、胚移植の準備を進めていたとき、内診中に医師が子宮内膜ポリープを見つけました。緊急手術で除去することになりました。手術後、子宮内膜の状態が安定するまで胚移植を延期することになりました。医師に「せっかく採れた卵だから、できるかぎり最高の環境の子宮に戻してあげないともったいない」と言われて、全くその通りだと思いました。いずれにしても、あと2回の移植で結果に関わらず不妊治療は卒業するつもりだったので、焦りはありませんでした。

42歳、5回目の胚移植→奇跡の妊娠

内膜の状態が安定した後、5回目の胚移植を行いました。41歳の時に採取した卵だったので、あまり期待はしていませんでしたが、驚くべきことに陽性の結果が出ました。初めての妊娠に喜びを感じながらも、40代の高い流産率を考えて、夫以外には誰にも言いませんでした。

胎嚢の確認、心拍の確認、不妊治療専門クリニックの卒業、産院での妊婦健診を経て、一歩一歩進んで、ようやく安定期に入り、胎動を感じるようになり、本当に子供が生まれるかもしれないという実感が芽生えました。

現在は妊娠6ヶ月目で、予定日は2024年7月です。最後まで安心できない部分もありますが、無事に出産できることを心から願い、日々を過ごしています。

まとめ

今回は私の妊活の体験を紹介しました。妊活を通じて、たくさんの感情や考え方を学び、結果的に仕事やパートナーとの関係、生き方に大きな変化がありました。

私の奇跡の妊娠は、40代の妊活が成功することがあることを示してくれました。しかし、この記事で一番伝えたかったのは、過程や結果がどうであれ、その経験は将来の人生で大切な財産となるということです。

自分がどうしたいかを理解することが大切です。周りの声に惑わされず、自分の心に耳を傾けてください。選んだ道を一歩ずつ前に進んでください。私はあなたを心から応援しています。

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